2012年1月20日金曜日

坂之上の雲第一巻。




以前読んだ坂之上の雲第一巻をもう一度読んでみた。中国にいる際に、一度全巻読んだけど、もう一度読んでみたくなったので、一巻だけブックオフで購入して読んだ。

僕は、司馬遼太郎の本と出合って小説が大好きになった。でも、この小説を読み始めのは、司馬遼太郎の本を結構読んでからだった。

最初は、幕末の歴史を中心に読んでいたので、幕末の人物や出来事については、わざわざ辞書を調べなくても大体はわかるようになっていた。


坂之上の雲は、明治維新の後から日露戦争終了までを描いた作品だったので、関連知識がないから面倒かも、と少し先延ばしにしていた。

しかし、一度読み始めると、司馬遼太郎の文章に耐性ができていたのか、関連知識がなくても、すいすいと小説にのめり込むことができた。



僕は、悩みがあったり、壁にぶつかった時には、小説から何かヒントを得ようとしている。脳の中に、司馬遼太郎が描いてくれた人物を同居させ、彼ならどのような選択をとるだろう?と言う風に、いつも助言を求める。


その人物を鮮明に脳内に存在させるためには、時間と共に変化する脳にあわせて(これがあるから一度目に味わえなかった文章を味わえるのかもしれない。)、お気に入りの小説を再度読む必要がある、と僕は思う。



今回も先日活用したポストイットをバコバコ使うというやり方で、ストレスフルに興味深いセンテンスをマーキングしていった。




話は少し脱線するが、以前声に出したい日本語?なる書籍が巷で流行ったと思う。読んではいないのでわからないけど、実際のところ、声に出して暗誦したい日本語ってことだと解釈した。(本当に勝手な解釈法だ)

それなら、司馬遼太郎の興味深いセンテンスも僕は声に出して暗誦したい。




僕は自分でも自覚しているが、かなり日本語が下手っぴだ。しかも、たまに手がつけられないようなオバカなミスもする。たとえば、「油揚げ」を「ゆあげ」と読んでしまったり、「青果」をなぜかわからないが「りんご」と読んでいたり(これは2週間前に)。。。


その原因は、小中高とまったく本を読まなかったのと、わからない漢字がでても、辞書を調べずに中国語で読んで誤魔化したりしたからである。


普段しゃべっている時なら、「お前アホやん!っぷ」♪くらいで笑って済ませられるが、仕事等のフォーマルな場でそのような滑稽さを出してしまうと、「え。。。?」と少し気まずい空気が流れて、「こいつに任せて大丈夫か?」となりかねないように、最近思えてきた。


そんな理由から、たまには声を出して暗誦する文章をピックアップしなけりゃなーっと思った。


ポストイットで記録した箇所

子規の筆写癖は終生のもので、後年、革命的な俳諧論を展開するにいたったのも、かれが克明に江戸時代の俳人の作品を写し取っていたそういう手の作業のなかから思考がうまれてきたらしい。


好古は、質問の本意をきいた。質問の本意も聞かずに弁じているというのは「政治家か学者のくせだ」と好古はつねに言う。軍人は違う、と好古はいう。軍人は敵を相手の仕事だから、敵についてのその本心、気持ち、こちらに求めようとしていること、などをあきらかにしてから答えるべきことを答える。そういう癖を平素身につけておかねば、いざ戦場にのぞんだときには一般論のとりこになったり、独善におち入ったりして負けてしまう、と好古はいうのである。


青春というのは、ひまで、ときに死ぬほど退屈で、しかもエネルギッシュで、こまったことにそのエネルギーを知恵が支配していない。


真之にいわせると、「考え」というものは液体か気体で、要するにとりとめがない。その液体か気体に論理という強力な触媒をあたえて固体にし、しかも結晶化する力が、思想家、哲学者といわれるものの力である。








本日の名言
話題にしようと思っていることについて、もっともっと学ぶこと。
知れば知るほど、一層真剣になり、情熱を燃やすようになる。

byD.カーネギー

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