2012年1月11日水曜日

暗唱の応用性

僕は、中国語を勉強していた時に、よく本文を丸ごと暗唱していた。

自分から進んで暗唱していたわけではなくて、当時僕に中国語を教えてくれていた先生が、そうしなさいと言ってくれたので、それを実行しただけです。

しかし、これはかなり時間が必要で、しかも数日経つと忘れてしまう。

実際のところ、完璧に忘れるわけじゃないので、たまにブラッシュアップというか、チューニングをしてやらないといけない。

しかし、今思い返すと、暗唱ってすっごい応用が効く勉強方法じゃないかと思い返す。

もちろん、英語を勉強中の僕は、英語でもこの方法を使っている。

そして、最近、大学1年の時に学習していた数学をふと思い返した。

よくよく考えてみると、その当時、僕は数学が大っキライで、テストが近づくににつれて、胃のあたりが痛くなっていた。

その理由は、ただでさえわからない数学を、中国語でやらされていたから。


そして、よく言われるのが、数学は記号とか数字とかだから、語学なんて大して関係ないじゃないか。っと。

でも、実際のところ大ありなんですわ。

なぜなら、その数式を見てもさっぱりチンプンカンプン(ちなみに、チンプンカンプンって中国語の听不懂看不懂から来てるらしい)で、つまり、数式がわからんのだから、それを説明してもらわないといけない。
その説明が、中国語だからわからん。

っという、自然科学さっぱりな僕としては、まあ至極当然のことを言ってるのだけどね!


っで、その時に、しかたないから使った方法が暗唱だったのだ。

その時は、ほんと藁にでも縋りたい気持ちで、なんかええ方法ないか?っといろいろな本をひっくり返した。

っで、そのひっくり返した本から答えが出たわけじゃなくて、僕が大好きな小説、司馬遼太郎さんの「花神」からヒントを得た。

なんでそんな小説がヒントになるねん?っと思うかもしれないが、この小説は、以下のような内容。




周防の村医から一転して討幕軍の総司令官となり、維新の渦中で非業の死をとげたわが国近代兵制の創始者大村益次郎の波瀾の生涯を描く長編。動乱への胎動をはじめた時世をよそに、緒方洪庵の適塾で蘭学の修養を積んでいた村田蔵六(のちの大村益次郎)は、時代の求めるままに蘭学の才能を買われ、宇和島藩から幕府、そして郷里の長州藩へととりたてられ、歴史の激流にのめりこんでゆく。


この中の蘭学の学習ってのと、そこから自然科学へと発展させていく過程のどこかにそのヒントがあるはずや!
なぜなら、僕も大村氏と同じような境遇だよな!?だよな!?っと思いながら、そこからヒントを得ようとがんばった。

そして、得た答えが写経だ。

「寺の使いの者か!?」、ハゲか!?っと。

もう、見て読んでわからんのだから、その上の書き写す、臭う、食べる、聞く、脱ぐ、等色々と五感をフル稼働する方法を考えたわけだ。

そして、僕はまだ未熟者で、辞書のページを食べるとか、そういう山羊よろしくのストイックさは早い!!ということで、手を動かすという方法を使うことにした。

っで、やってみるとすごくいい。

それまでは、わかったつもりのものは、全くそうではなかった。

そう。噛み砕けていなかった。
食べ物でいうところのガムがそれだ。食ってるんだけど、飲み込めてなくて、少しのカロリーしか体内に入ってこない。

しかし、写経という咀嚼方法を知ってからは、第一段階の消化活動を行ったのだ。僕は歯を手に入れた。

それからというもの、数学の教科書を隅々まで写してやった。もう、丸裸にしてやったのだ。

そして、気づいたら、いろんな定義を丸暗記していた。
少しでもわからないところは、時間をおいて(例えば2日寝かせるとか)、もう一度写経をする。
それを何度も、何度も繰り返した。

様々な定理を駆使して証明する場合だと、定理が曖昧な時点で理解が難しい。
解ける解けないという問題の前に、理解できる、できないという導入問題自体を解決しない限り、その先に進めないのだ。


写経は理解するための最高のツールだとココで主張させてもらう。
そして、そのルーツを、つまりその原理を辿ると、暗唱ではないのか。

先程も言ったように、ひとつの物語を解き明かすために、さまざまな予備知識が必要で、その予備知識を覚えることが、理解に先駆けて成されるべきことなのだと。

ここまで言った上で、僕は物事を理解する上で、特に定義や理論を学ぶ上で最高の方法は暗唱だと結論づける。 今までにも述べたように、わかっているつもりは、頻繁に起こり得る。 いや、実際理解しているのだろう。

ただ、その理解の厚みは、暗唱することによって、そして、その暗唱する過程で、新しい発見をもたらしてくれる。

暗唱までの道のりに、写経だったり、音読だっあり、叫んだり、歌ったり、脱いでみたり、そうやって体全体で、対象物をこねくりまわす。

僕もよくわからないなりに脱いだ。そして、風通しを良くした上で、光合成を試みながら暗唱する。その様は、一見したら不審者だが、解放感から来る新しい空間を作り出した四畳半の支配者でもあり、苦学生の鏡なのだ。

さて、このままだと、いつまでもバカな話を繰り返しそうなので今日はこれくらいで!





今日の名言

物事は両面からみる。
それでは平凡な答えが出るにすぎず、
智恵は湧いてこない。
いまひとつ、とんでもない角度
つまり天の一角から見おろすか、
虚空の一点を設定してそこから見おろすか、
どちらかしてみれば問題はずいぶん変わってくる。 
 
by司馬遼太郎

2 件のコメント:

  1. わたくしも丸暗記擁護派だな.最近はやってないけど.
    無意味な文字列の羅列を覚えるのは苦痛でしかないし,最初は苦労するもんだけど,背後にはルールが隠れていることに気付いてからは楽になる気がする.
    ジグソーパズルみたく正解しかハメられないものだったり,覚えるまでもなく韻を踏むような単語は数が限られていたり,現実世界と対応付けを引き出せたり.
    そんなルールに気付くと,覚えるのが苦じゃなくなる.丸暗記って忌み嫌われるけど,ルールに気付くトレーニングじゃないかと思う.

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  2. コメントありがとうございます!
    丸暗記って、江戸時代にはすごく流行ったんですけどね。
    昔だと、<資治通鑑><四書五経>等が武士の間で、教養として代表的に暗唱されてたみたいですわん。
    そうやって、優位性に気づいていたのに、自分の専門分野に応用していませんでした。これからはそこのところを工夫してみたいと思います。

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